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FAQ?座談会-「熟睡」上映を振り返る

2022年3月4日(金)〜6日(日)に上野の5th floorで開催した「熟睡」上映会。FAQ?でのはじめてのオープンイベントとなりました。ざっくりぱらりと振り返る夜の座談会です。 (イベント情報はこちら



M…麻吏奈 / Marina

K…果菜絵 / Kanae


 

M:いちご食べてもいいすか

K:うん、食べよう

M:このめっちゃやばいの食べてほしい

K:え、何、どれでもいいよ、好きなの食べて、可愛すぎる(携帯のシャッターのおと)

M:この超やばいの食べてほしい、かなえに

K:だってさ! MK:やばくない?これいちごじゃない

M:何これ、トマト

K:唇みたいだよ

M:確かに、ちょっと待って、写真とってい、トマ、(携帯のシャッターのおと)なんかシュールな感じになっちゃった

MK:やばーい(笑う) K:いただきます

M:私はこの、これにしよう、トマトみたい

K:うん、ジュ、うん、あ、でもちゃんといちごだ、おいしい

M:ほんとだ、味いちごだ

K:美味しい、味美味しいね

M:うん


K:ジュル、けどあまおうってブランドいちごじゃん、あ、新しい皿持ってくる。ブランドいちごだけど、この奇形いちごをさ

M:あ、ありがとう、この形態で売るんだって意外だった

K:このいちごを、みんながさ、このデカいいちごいいじゃん、ってなって買うってことだよね。

M:不思議だよね。結構二度見しちゃったもんな。これ。

K:それこそ植物論的にはすごい面白い変化っていうか。

M:確かに。こういう、、栄養過多っていうか、違うかな

K:多分、これ最初は偶然できたのかもしれないけどさ、それを狙って作ることもできる、じゃん、ジュル

M:金魚とかもそうだもんね。あの、めちゃめちゃヒレがベロベローってなってるやつ。意図的に品種改良して。

K:うんうん。でかいやつね。将来、もしかしたら、いちごこんくらいになってる可能性ある

、トマトくらいでかいっていうか。

M:一周してるかもしらん。

K:くっついてくっついてくっついて・・・(笑)だっていちごってみんないっぱい食べたいじゃん。

M:しかもさ、でかくなるんじゃなくて、横に広がるんだ、みたいな。そっち?みたいな。

K:確かに。

M:ね。いちごも見れば見るほど変な生き物だよね

K:本当だよね。表面とかも不思議だし。

M:種が埋まってるっていうか、ドット状になってて

K:割と均一にこう広がっているというか

M:変なやつだな

K:だって種作るんだったら、ここだけとかでも良いわけじゃん、いっぱい

M:こんなさ、全方位的にさ、めっちゃ心配性なのかな。不安症みたいな。地面に落ちた時に土の上に種なかったらどうしよう的な、なんか強迫観念性感じるよね

K:確かにね。そうだよね。種他にもざくろとかキウイとか、多いものいっぱいあるけど、全部こう中に内包されてるけど、(いちごは)すごい全部綺麗に埋まってる。

M:なんか変だなぁ

K:あまおうは美味しいね、これ、びびる。



M:この見た目でよく考えると、その可愛いっていうのが表象としてさ、共有されてるのが面白いよね。

K:面白い。

M:なんか、なんだろ

K:なんかでも、もう、もはやこれは可愛くない

KM:(笑)

M:可愛くないよね。まじまじと見ると可愛くないんだけど、可愛いものとして流通してるから、可愛いっていう気がするけど、よく見ると可愛くない。なんだろうね。

K:可愛いとされてるものってよく見ると可愛くないもの、多分いっぱいある気がする。

M:そうだね。それこそ、女性とかもそうなんだろうね。表象。

K:オンナノコ、みたいなイメージ。

M:イメージが。



 


K:上映会はどうだった?

KM:どうだった?って難しい設問だよね。

M:楽しかった。

K:楽しかったね。

M:3日間違うプログラムでみれて、それぞれの組み合わせによっては感じ方だいぶん違うのは発見だった。順番とか。いい作品が揃ってたから。



M:何より、最初に『Dear Tari』を流したことをメンションしときたい。

K:しときたい!『Dear Tari』面白い作品だよね。

M:あんなにちゃんとまとまって、イトー・ターリさんの稽古風景見れたり、働いてるところ見れたり、こういう感じだったんだ、ってのは新鮮だったし。最後のピクニックはターリさんが運営していたパフスペースのピクニックとかなのかな?

K:私も思ってた。(監督の)山上千恵子さんは10年くらい、ターリさんと一緒に活動したり、パフォーマンスみてきてるから、要所がめっちゃおさえられたドキュメンタリーというか。稽古に始まり、本番のパフォーマンスもあって。制作風景、あのヴァギナを作ってる風景をさ、とらえてるものってすごく少ないだろうから。

M:あんな感じなんだーって。めっちゃ大変そう。結構でっかいラテックスの型を作るの。

K:あと笠原美智子さんとかの当時の姿は、映像では多分ほぼ残ってないと思うんだよね。書籍は多分いっぱいあると思うけど。

M:ね。

K:ね。ターリさんが、《私を生きること》で「結婚しているんですか?」とか、モザイク声の人々からのプレッシャーを感じて、マイクをブチっと外して解放されるシーンがあるじゃん、あの時の顔が好き。もし俳優として演技していたら、体の力を抜いたり、わかりやすい息を吐いたりするかもしれないけど、一回のびてフーって、体のバネの動き方が、めちゃくちゃパントマイマーだなって。 M:身体で、全部を。

K:身体で、プレッシャーが消え去ったっていうのがわかって。いいシーンだなって思うんだよね。

M:パフォーマンスとかも、そんなにエモーショナルな感じじゃないもんね。見てる限りでは。エモーショナルっていうのをどういうふうに定義するかにもよるけど、見る側が何か、さっき言ってたプレッシャーとか、晒されてる、ターリさんや他の近しい問題やテーマを持った人が晒されているような外圧を想像した時に、エモーショナルなものが発生するとは思うんだけど。作品の中でカミングアウトするっていうのもすごく大きいことだと思うし、それで感情を動かされる、見ている側が動揺する要素も多いとおもうんだけど。でも、動きとか構成とかはすごく計算されているし、構築的な感じで、それでいながら、自分の体っていう、コントロールができないようなものをちゃんとこうパフォーマンスの中で扱って見せるみたいなのは普通にもうテクニックっていうか。すごいなって。

K:うん、すごい。母がほどいた毛糸を自分で巻き直して、それをパフォーマンス中では、ほどきながら自分の記憶をほどくシーンがあるけど、見るたびにいいなと思うのが、一つは、ターリさんがセリフを一回間違えて、それを一回言い直すシーン。演劇的だなと。プライベートなことを観客に話す素のパフォーマンスなのではなくて、すごく構成されたものの力を感じるっていうか。そのセリフを大事にする冷静さのエンジンがかかってるんだろうなって。他のセリフでも、「なんで私が掻爬したことを近所の人に言うんですか」って言うけど、ソウハってわかんないんじゃないかなって。

M:私も最初、ソウハって、あのソウハ法のこと?って思って、確信が持てなかったけど、何度も見たから、そう言うことかなってわかるけど。わかんないよね。

K:今だったら多分キーワードとして使わない、中絶って多分言うと思うし。その言葉がすごい心に残るというか。見た人どれだけセリフ理解できたのかな、って知りたくもなって。毎回(映画を観ていて)緊張するんだよね。周りがどう思ってるのか、一瞬、劇場側の、見てる側の人たちに意識が向く。

M:しかも、ターリさんがその時、母の発言を聞いた当初、こたつに入って聞いてたみたいな時にもそれを知ってたかどうかもわかんないもんね。母とおばあちゃんとの間には何か見えないものがあるんだろうな、って感じたって言ってたじゃん。それが、どこまで、ターリさん自身も、ソウハって言うのがわかんなかったから、そのままセリフで使ってるかもしれない、なんだろうソウハって思って、印象に残ったセリフだったから、言い直さず母のセリフそのまま応用してるかもしれないもんね。

K:確かにそうかも。


K:それを、実際の母も姉もみんな観に来ているところが

M:すごいよね。自分だったらなかなかあれだな、自分の作品を。家族、前来たけど、庭の展示の時に。

K:そうなんだ!

M:妹がお父さんに行こうよって言って来たけど。どう思ったのかわかんない。特にコメントは、土敷くの大変だったねくらいしか言われなくて。私は作品の中で明確なカミングアウトにあたる行為はしたことなくて、家族にも自分の事について詳細に話した事がないままなので、なんか気まずい(笑)

K:ターリさんの場合は、お父さんとかは出てこなかったじゃない。映像にも出てこないし、パフォーマンスの中でも一言だけ、母と祖母の会話が終わった後に「姉の葛藤、父の葛藤」って一言出てくるから、存在としていたんだろうな、と思うけど。ドキュメンタリーの中に父が登場しないのは、山上さんがあえてそう言うふうに作ったのかどうかは聞いてみたいとはちょっと思った。



 


K:望月優子『ここに生きる』とかすごい面白かった。

M:よかった。それこそ『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』とかと並べる日とかあってもきっと面白かったと思う。

K:よくできた映画なのもあるけど、デニス・ホー自身が、色んな変遷を経てきている人というのが面白い。自分の変化を受け入れて、気づいたことに素直にやってきた人〜と、好感が持て・・・てかもうむしろファンです!みたいな

MK:あれ見たらファンになる。

M:素晴らしい。

K:アニタ・ムイとの関係もいい。


K:今回経験値のある作品が、自分達の作品と並んで見れて、世代で語るつもりはないけど、安心感に支えられた。展示の時はけっこう構えるけど、今回は自分の輪郭があいまいというか。他の人たちの叡智を借りています、という状態が良い感覚。

M:上映っていうのはいいね。展示とか個展とかだと全部が自分にかかってくるみたいなプレッシャーが強いけど、そうじゃなくて、ちゃんと信頼できる、さっき言ってたような他のプログラムにも委ねられる。それぞれの作品は独立して流されてきたものとかだから、並べて上映をするってことで、新しい見え方とか、発見がある、っていうのは上映会っていいなと思う。

K:そうだね。気軽だったしね。人にも支えられたし、作品にも支えられた。今回の座組みがすごいよかったのではないかと。FAQ?だけでこういう上映会をスッと実現するのは大変だし、できるけど、規模も縮小せざるをえなかったと思う。プログラムに集中できたので、いい経験だった。

M:ほんとうに。

K:5th floorも多分、2人で考えたら選択肢に挙がらないじゃん。

M:うん、そういう偶然が重なり。

K:12月にイベントやった時は、いつか見せられればいいなぁぐらいに思ってたから。観客とゆっくり話したわけではないけど、なんか持って帰ってくれた感じはあった。



M:布団っていうのもよかった。長時間でも、布団があったら腰落ち着けて見ちゃう。ちょっと外側から固められている、状況でこう。図らずも、家を扱うような作品も多かったから。寝てるシーンの多い作品も多かったし。

K:本当だよね。横になっているシーンがすごい多い。

M:あれは意外な発見だったな。

K:映画で日常を描く中で、食べるシーン、寝るシーンって監督が意図的に使ってるシーンだと思うんだけど、『ここに生きる』、バー帰りの女性の雑魚寝のシーンよかった。

M:川の字になって。

K:最後の方に坊主の男の子が、壁にこう横になりながら、鉛筆で「お母さんの仕事」って書いてて。あれは演出が入ってるのかわからないけど、印象深かったなって。

M:布団って独特の文化かもね。話ずれるけど。

K:そうかもね、ベッドじゃなくてね。

M:布団っていうのが簡易性と。展示っていう空間に対してはいい作用してた気がする。上映会も映画館じゃなくて、仮設的な3日間だけみたいなのと布団。うまく繋げられないけど。なんか結構いいなと思ったんだよね。

K:そっか。布団に抱くイメージが仮設的ってこと?

M:片付けられる。撤収があるじゃん。私、布団で寝たことってないんだけど。修学旅行とか旅館とか以外で。自宅だとずっとベッドだったから。

K:私もです。

M:上映会終わって、洗濯するために剥ぐじゃん。修学旅行とかキャンプみたいだなって。ベッドってシーツとか剥ぐって1年に1回やったらいい方っていうか。布団ってそういうさ、あんま恒久性がないかんじ。

K:それは面白い印象かも。自分が布団で寝てたわけじゃないけど、関係を持ってきた人が布団生活の人が多くて。しかも、そういう人たちの布団って永遠にそこにある布団なのね。

M:畳まないタイプの布団。

K:全部の生活が布団を起点に床にこう広がっていくっていうか。

M:私も布団だったらそうなってたかも。

K:ベッドって段差がある、入る、ステージと一緒で、

M:ちょっと聖域的な

K:そうそう、聖域的な、エリアがあるけど、布団って猥雑な感じがもっとする。『ここにこに生きる』の川の字で寝てる布団も猥雑さというか、生活感あるものって印象があって。言われれば、旅館とか修学旅行とかの布団にも接してるんだけど、でも私は布団みると悲しい、切ない気持ちになる。郷愁?つげ義春の漫画読んでる気持ち。



K:長谷川さんセレクトの『わたしたちの家』(清原惟 監督)でも布団で寝てるシーンが印象的だったけど、あれも悲しい、侘しい。ホラーとかとはちょっと違う、日本家屋の薄寒さみたいなものをああいうシーンから感じる。

M:風通しのある。自分の作品になっちゃうけど、野外で布団敷いて寝るのは、仮設性として、ベッドじゃなくて布団だったんだよね。

K:あ〜たしかに!布団にしようって相談して決めたの?

M:そう。布団にしようって。ベッドじゃないんじゃないみたいな。それこそ『わたしたちの家』もだし、望月さんのとかは、それこそ戦後だから、仮設的なバラック長屋に住んでて、急ピッチで戦後、仮で作ったような部屋にそのまま棲みついて、みんな狭いところに住んでるみたいな感じと屋外ってそんなに離れてない感じもするし、日本家屋自体がいつでも、石じゃないレンガじゃないとか、木造という意味では、災害が多い国だから仮設的な感じがあって、それを布団に感じてしまうのかもと思ったりもする、自分が。

K:面白いね、布団に仮設性を感じたのは今日が初めてかもしれない。むしろ万年床の方が現代的なものなのかも。ベッドの代替物としての布団としてみてるから万年床になってっちゃうけど。

M:片づけるという発想がまずないみたいな。

K:そうそう、一人暮らしだったりさ、一人の部屋があったりすると。戦後直後の家は、遊ぶ場所勉強する場所も布団が移動することによってだろうし。布団だと並べればみんなで寝れるもんね。

M:地面全部寝るところみたいな感じ。

K:今回の布団祭(=ふとんまつり)の人がくれた布団もさ、最初勝手にイメージしてたのは、いろんなところから持ってきた毛布とか、花柄の(笑)

M:いろんな柄が集まるのかなと思ってたけど、意外とシンプルでシュッとしてた。

K:刑務所とかってこんな感じなのかなと思わせるくらいの

M:漂白された感じだよね

K:職員向け布団みたいなやつで。長谷川さん的には5th floor自体が元々社員寮だったから、きっちり布団並べられるんだよ、と言ってたけど、脱色された布団だったので、気軽に寝れたな〜と。でも、現在のベッドという概念を経てからの布団を知っている私は、他人との領域を意識しちゃう。今回はせずに済んだけど、もっとこう布団っていうのを意識しちゃうと、隣の人との間が、段差がないっていうか、映画館とかだと肘置きとかあるけど、

M:区切りがね

K:区切りが実はなくて、そこに対する危機意識みたいなものはすごいあった。もし大規模にやったら、そういうことのケアが必要になってくるかもしれない。性的な嫌がらせ対策とか。悲観的に捉えなくても、(布団は)いい意味でもわい雑なものだと思う。脱色された布団はちょうどいいポジションだった。想像の余地のある布団で。映画の中の布団にも変わってくれる布団で。

M:そうだね、過去の誰かが使った気配のある布団はちょっと怖い。


(パニプリを砕くおと)

M:日本家屋とか面白いなって思う。フレキシブルっていうかさ。性の空間、食の空間とリビングとか子供の空間がフレキシブルになってるっていうか。それこそアメリカとかの家って、親の寝室と子供部屋とリビングと、キッチンとダイニングと。絶対全部違うから。親は親で寝室があって、子供は子供で1人ずつ寝室があるっていうイメージで。そういうのが日本だとあまり決められていない、どうにでもなるっていうか、全部の空間が生活すべての行いを受け入れる空間ってすごい不思議だなって思う。

K:そうだね。小学校5年生の時に親が家建てて妹との部屋ができて、その部屋が区切られてなくて広かったから、友達がよく遊びに来て迷路とか作ってたんだけど、布を天井からぶら下げて、おならするための部屋とか作ってた。あほなんだけど(笑)。部屋の機能を分けるってそもそも面白いこと。

M:プライベートな(笑)

K:他人と共同で住むためのルールなのかもしれないけど。それがないから日本の家族の形が変なのかもしれない。それこそ『私たちの家族』に出てたエリンとみどりさんも、一人に一部屋をあてがうために、引っ越す時は5LDKの家を絶対探すって言ってて。私その感覚なかったなって。

M:うーん、仕切りね。『わたしたちの家』もだし、仕切りみたいなのが作品の中で意識的に使われているのはあったなって。『眠る虫』とかも、実際的な仕切りとかじゃないけど、おばあちゃんの持っていた箱、すごい機能してた感じ。『眠る虫』すごい変わった映画で、寝ながら見れたのよかったんだよね。しかも声を扱うっていうのって、意外と映画で見たことなくて、声っていうか音。たくさんの日常の音みたいなのが、わーって、バスの中の音がある中に、物語が進行していく要素が紛れ込んでて、それをこう掴んでいく、物語がそこから発生するっていうのがすごい面白かったな〜って思ったんだけど。待って、ちょっと整理するね。



K:仕切り、プライベートな空間でいうとさ、いろんな映画にあったけど、それぞれ『繁殖する庭』、『サイ』も仕切りの存在が大きい。MESの作品は元々物理的に銭湯で展示されていて、そもそも壁が真ん中にあって、入口も違う環境をわざと二部屋利用して再現的にやってたわけだけど、映像の中では銭湯出てこないから、そういう場所だったよっていう暗示だけで、映像だけを観てる人にとってはそんなに重要な要素にはなり得なかったかもしれないなと思った。

M:でもね、2部屋だったから。

K:仕切りの話でまとめようとしたけど、その前に1回ズレていい?

M:うん、もちろん

K:長谷川さんの熟睡上映会っていうのをMESの作品では反発する形になっちゃったなと思ってて。FAQ?のカテゴリではすごくやってよかったんだけど、熟睡上映会なのに、めちゃくちゃ移動することを要請してて M:熟睡させないぞっていう。 K:そうそう、イベントの面白がり方としてはありなんだけど、布団から出るって勇気いるし、あの状況だと人前を通らなきゃ行けないし。

M:それの方がいいんじゃない?他がそうじゃないから。

K:よかったのかもしれないけど、とにかく反発しちゃってたかも〜反抗的、いつも反抗的。

M:いつも制度っていうか枠組みに対してね。

K:逆張りしたい訳じゃないんだけどな。で、仕切りの話に戻ると、銭湯の仕切りを思い出したし、あっちとこっちが自分達の作品の中でも応答していて。あと、『わたしたちの家』は隣に部屋がないのにあるかのように撮ってて映画のギミックとして面白いと思った。

『繁殖する庭』もさ、衝立を建ててるじゃん?緑の。

M:あれは、もしここに家が建ってたらどういう形なのかな、っていう感じで作ったの、仕切りを。雑草が生えすぎてて、近所迷惑感もあるなっていうのでとりあえず。隣の家、奥の家っていうか右側の、四方八方家があるから右とか言ってもあれだけど、入って右側の家は段差とかがなくて。自分ところに生えてる草とかが、向こうの家の勝手口を侵食しちゃう。そういうのを壁を立てるってのは違うなっていうので、透けてる状態の工事現場の囲いを作る感じで、それこそ仮設的な家、工事中的なのをつけたって感じ。

K:仮設なのが重要だね?

M:建築物になっちゃだめってルールがずっとあるから。

K:そっか。ルールに沿った形の仮設なのが面白いかも。なるほど。あそこに家が建ってたことはあったの?

M:過去は建ってたらしい。家が建ってた頃の残骸とかも土を掘ると出てきて。食器とか歯ブラシのゴミとか。

K:えっ!解体された時そのままってこと?

M:そう、埋めて。捨てるのが大変だから、割れた食器は大量に出てきて、トイレの便器の破片とか。ゴミをそのまま土に埋めて、慣らして帰ったみたいな感じ。おじいちゃんが住んでたって聞いたけど。一人で。

K:時代が超えてったら、遺跡的な。名も亡きおじいちゃんが住んでいた場所。

M:そうそう、そんな感じ。貝殻とかも出てきたのが不思議だった。

K:すごい。一おじいちゃんの捨てたものの上には建築物できちゃうのかなぁ。すごい遺跡が出ると建築しないみたいなのあるじゃん。時代が下れば下るほど遺跡は増えていくんだから、建てちゃいけない場所めっちゃ増えるじゃんとか思うんだけど。この前うちの家の下に、コロナで家庭ゴミが増えてるんで、ゴミをあまり出さないように生活しましょう、みたいな広告が入ってたんだけど、コロナで初めてみんなちゃんと家に向き合ったんじゃないかなと思って。

M:うんうん

K:家にいる時間が長くなればなるほど、頑張って片付けたり、リモート環境整えなきゃとか。突然ゴミが増えたのではなくて、家って蓄積されていく場所だから、それが突然一気に出ただけ、みんなが出すタイミングが一緒だっただけで。ゴミ業者からしたらすごく増えてるんだけど、ゴミが増えたって家が活性化しているってことじゃん。どっちかっていうと。

M:代謝があがって。


 


K:魚の話をしたかったんだよね。

M:はい、魚。

K:シュー・リー・チェンの『FRESH KILL』はすごい魚が中心になってくる話。『Dear Tari』に出てくるターリさんの《自画像》もそうだし、《私を生きること》も、クラゲとか魚が背景に出てくる。クィアネスと魚、海産物の接続みたいな。その中で一個答えが出て、それは麻吏奈のおかげでもあるんだが、ノアの箱舟でさ魚って乗らないじゃん。海の生き物で。イルカとかが出てくる話もあるけど、外側にいるじゃん。対になって乗せられる生き物じゃない生き物としての魚、魚もヘテロ的な種もいっぱいいるけど、そこの、つがいから逃れた存在としての海の生き物っていうのは、キリスト教的なつがいの価値観から逃れる存在なんじゃないかな、っていうのをふと思って、記しておきたいなと思ったんよ。海の生き物自体の造形もユニークで美しいし。

M:魚、それこそこの前もディズニープリンセスの話を、少女会(現在は桃会〜peach-kai〜という名前で活動している。赤西千夏・宮野かおり・和田唯奈の美術作家・画家からなる「かわいい」についてのおしゃべり会)っていうグループで話して。花の話になった時に、私が前から思ってるのが、花のいろが、ディズニープリンセスのドレスっぽいのがやだって小さい頃思っていたという話をして。なんていうんだろうな、相互依存的な感じかもだけど、人間が、性的に誘惑する色としてのドレスみたいなのと花って色が似ているなと思っていて、人間が花からヒントもらったのかもだけど、ってのがあるんじゃないかって思ってて。キャバクラの人のドレスとかそうかもだけど。

K:形的に?

M:形もだけど特に色。色彩。暖色。寒色もあるけど、花の色って緑とかない。改良した花はあるんだけど、自然界の花の色であんまなくって。ピンク、赤、黄色、水色、薄紫とか白とか。ウェディングドレスとかでも選ばれやすい色とかだったり。女性が自分を飾るための色としての花の色を選ぶようなところがあるんじゃないかというモヤモヤがちっちゃい頃から結構あって。女児の服にありがちなどの色も好きじゃなかったから。好きじゃない理由もプリンセスやリカちゃん、ジェニーちゃん、バービーとかが着てて女っぽくてやだ、っていうのがあって、個人的には反発があった。緑を着てるプリンセスってなんだろうってなった時に、ジャスミンとアリエル。ってのがまず思いついてそれでいろいろ気づいて少女会でその話をしたんだよね。

K:ジャスミンってなんの話だっけ。

M:アラジン。

K:あ〜!

M:で、魚の話で言うとアリエルとかまさに魚人じゃん。で、ジャスミンはディズニープリンセスの中で、最初期の白人じゃないプリンセスだったのね。非西洋圏の人や人間じゃない(半分魚)と言う意味で、外側の存在として登場するプリンセスたちは表象として緑のドレスを着てて。

K:そうね、中東系。

M:それで、ディズニープリンセスってググったんだよね。ディズニープリンセスガイドブックって、結構真っ先に出てくるやつなんだけど、表紙に並べられているプリンセスの枠の色で緑のところ見るとさ、全員非白人なのに気づいて。真ん中に人気のあるプリンセスが集められていて、その中で緑の服着てるのはアリエルだし。あくまでも周縁化された存在としての緑みたいなのをすごい感じたんだよね。

K:確かにすごい周縁化されてますね。モスグリーンとかはドレスではあり得るけど、染色ってものが花から色が採られてるとしたら、緑の花があんまりないって言ってたけど、緑って自然的に作りにくい色?

M:葉っぱあるけど。出しにくいのかな。

K:モスグリーンと茶色は華やかな色ではないという。

M:それもあるだろうし、西洋のさ、不吉な色としての緑があるっていうのはある。ゾンビとか、エイリアンとか。『FRESH KILL』でも、緑だったじゃん、魚がさ。ていうのが繋がるなって思ったりとかした。

K:たしかにたしかに。最近作ろうとしてる作品の色を緑にしようとしてるんだけど、たしかにその不穏さの利用のしかたとしての緑。『FRESH KILL』の緑は、不穏さの緑だし、グリーンが富だったり、劇中でずっとグリーンの意味を問い続けるシーンがCMで重ねられていくけど、もちろん、環境問題とか、危険な不穏なものの意味としての緑ってのめっちゃあるだろうけど、この時期のサイバー空間における緑、それは『攻殻機動隊』とか『マトリックス』とかも含めてだけど、緑の存在感、しかも光を放つタイプの緑の存在感と言うのは、怖くもあるけど美しい存在として、監督たち、作っている側のアーティストたちは採用していたのかなとか思って。特に『マトリックス』のウォシャウスキー監督たちは今はトランスジェンダー公言してるけど、クィア性みたいなところにもしかしたら。ピルの選択は赤と青だけど、いる空間は緑だし、そもそもフィルターっていうかLUTが緑で、やばい緑で。久しぶりに見直して、えっ!こんなに緑なんだ、って思った。時代感もすごい感じる。

M:緑、蛍光染色とかも緑が多い、細胞とか、RATの染色もだいたい緑が多いんだけど。あれっていまだによくわかってないけど、私の想像しうるって言うか、今の所の多分こういう理由かなって言うのは、緑が一番明るい色だからかなって思ったりするんだけど。そう言うことで利用されてたのが、遺伝子組み換えとか、化学的なあれとかによく使われたりとか。レーザーとかも緑多いよね。

K:レーザーも緑は波長が一番長いから。もしかしたら緑は人間が最初に認識できる色なのかも、一番届くっていうか。カメラとかは赤苦手だし。そう言う特性においては緑強いのに、、、だからなのか知らんけど、さっきのプリンセスのはびびる。

M:色による巧妙な線引きがあるなって。

K:全然意識してなかった。

M:私もアリエルから気づいた。半分魚という人間じゃない存在を色によって表現している。



K:あの、グリーンピース食べて吐く、

M:え(笑)

K:なんかグリーンピースをスプーンに乗せてあの、要は表皮を破るみたいな。グリーンピースって皮が残る食べ物じゃん。

M:あれが苦手な人、グリーンピースご飯嫌いな人ってそこが嫌いだったりするよね。

K:そうだよね(笑)その膜を開けて、それを吐き戻すみたいな、そういうパフォーマンスをターリさんが初期にやってたのを本で読んで、すごい面白いな〜って。今からみれば一貫しちゃってるんだけど、めちゃくちゃ色々やってる。それがメディアと出会って、今知ってる形、『Dear Tari』に出てくる形になったきっかけは、ダムタイプにも影響受けてるってターリさんも言ってたけど、96年が《自画像》で、94年がダムタイプの《S/N》。そのなんか時期の、突然パフォーマーたちの身体に、一気にこう機械を、マンモグラフィみたいにギューって押し付けられたというか、一体として見せなければ、みたいな、なんかその感じ面白いなと思う。

M:結構メディア的な表象を積極的に使用している人多いよね。メディア的っていうのは、新しいものを自分の身体としてちゃんと取り込めてるみたいな。ターリさんもお絵描きツール使ったりとか、結構インターネットのさ、ああいう画面とかツールとか、割と実験的に使いながらパフォーマンスに入れてる部分が結構あったんだなって思う。新しいツールとかテクノロジーと身体が割と密接にうまく使ってる人たちがいたんだな、って割とアーカイブ見ると思ったりとかして。今はメディアだけが先行してたりするから。そういう印象だから。そうそう。

K:闘ってる感じがするよね。メディアと身体が、こう、違うものとして。メディアを押し出す人がいれば身体を押し出す人がいるというか。それって両方の技術が必要だから、難易度も高いとも思う。

M:当時は結構いたのかな。お絵描きツール個人的にはちっちゃいころよく使ってたから。あ、これターリさん作品に使ってるんだ〜と。画家とかでお絵描き掲示板的なツールを使用して作品制作している人もいるけど、パフォーマンスとかでそういうツール使用している人あんまり見た事なかったから新鮮だった。

K:確かにお絵描きの人って感じする。

M:そういうのの前に、やっぱそういうのを使ってやってた人が、今知らないだけでいるのかなとか。そういうのにターリさんが関心があったのは面白いなって。

K:そうだね。自画像の時もビデオカメラに向かって告白してるっていうか、カミングアウトしていく、自分をアイデンティファイしていくっていうのは、ビデオカメラを通して観客に見せているのも面白いし、今これだけスマホが普及するようになってから見ると、すごく、なんていうのかな、画面との接し方っていうか、フレームワークとしてすごい興味深いなと思ったし、監視されてたりって意味でも。見慣れた景色なんよね。こうやってこう自分で画面越しに喋るみたいなことがさ。それをいち早くやってたんだなと思って。

M:ね〜。

K:ターリさんの作品だけを見ても、いろんなことが新しくないんだなって思える。歴史的な行為として、皮膚を装着する試みだったり、それを脱ぐ試み、剥がしてくみたいなことが、脈々と行われている。もしかしたらもっと他にもラテックス使ってきた人いたかもしれないと思うと、すごい、ターリさんのおかげで開いた興味の扉があって。


K:てかそもそも『Dear Tari』をなんで上映しようと思ったかの根幹には、最初にうちで話した時に、麻吏奈の作品とターリさんの作品に共通点があるんじゃ無いかっていう出発点があって。

M:皮膚のってあんまり出してない、最近。

K:浅草でやってたウレタンの皮膚みたいな色したやつとか。

M:あれ確かに、あの奥にちょっと昔作ったラテックスのやつとか展示してたね、そういえば。

K:タトゥーしてある肖像の作品とかもそうだし、リー・エーデルマンの、ね、引用含めた皮膚の作品があって。皮膚の作り方もいっぱいあるかもしんないけど、皮膚ってターリさんも映像中で言ってるけど、「内側と外側の問題だから、私個人から発信して自分と社会の関わり方の問題」って言ってて、すごい好きなメディア。二人の作品が同時に見れたらいいなとか、なんか一緒にできたらいいなってのがあったんだよね〜そういえば。で、工房チカのパフォーマンスをみんなで見に行こうって言ってたんだよね。

M:パフォーマンス見たかったな〜。

K:いずれ公開されるのかな?なんか撮影はしたっぽいじゃん。

M:それで、生でまた見れたらいいけど、そういう機会がなくなってしまったっていうところで。今回、『Dear Tari』を。

K:『Dear Tari』じゃなくて他のパフォーマンスのアーカイブでもよかったのかもしれないけど。『Dear Tari』は初めて見る人にとってもすごく優しくできてるし。

M:どういう人なのかわかるし。

K:ターリさんのことばっか話しちゃったけど、山上さんのパワーがそこには乗っかってる。山上さんが語りの中でさ、自分のヘテロセクシュアル性についての気づき、初めての気づきを吐露するシーンがあって、素直に、ピクニックの人たちもそういう話をしてて、ヘテロセクシュアルの人が、一緒に気付ける動線を作る映画だなと思ったし。最後「私はそう思います。」っていうセリフで終わるのも、非常に個人主義的でいいなと思う。意志も感じるし、他者に強要している訳ではないのだが、こういう生き方があるんだよっていうことをみんなに知らせたいという強い思いもあって。なんか最後の終わり方さ、テラヤマ的というかさ。最初に見た時、ちょっと笑ったんだけど。

M:確かにそう言われると。

K:最後こう、監督が入って。みんな拍手で迎えてさ。ドキュメンタリーなのにめちゃくちゃフィクショナルで面白いなって。

M:結構メタな感じで。

K:これはもっと、どんどん、アート界の人にも見られてほしい。

M:うん。そう思います。

K:そう思います。やっと、上映会、ある意味2回、『Dear Tari』ができて、本当に人生でやりたかったことのひとつが達成されて、幸せな気持ちです。これに満足せずやりたい。

M:そうだね。ターリさんの作品とかまた別な機会でもできたらいいよね。


収録日 2022年3月16日




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